性善説と性悪説

古代中国の思想である儒教の考え方から派生したものに、性善説と性悪説という考え方がある。人間は生まれながらに良い心をもって生まれるとするのが性善説。悪い心をもって生まれて来るとするのが性悪説だ。性悪説をとる思想家達は、人は悪い心をもって生まれてくるのだから、厳しい法律を制定してそれを封じ込めようとした。法家思想の誕生である。法や規則を定めて人の行動を制限しようというこの考え方は、数千年後の現代まで脈々と続いてきた。今では国や企業そして学校など、社会の隅々にまで染み渡っている。やはり性悪説が正しく、性善説は誤りなのだろうか。

私的結論は、善悪両方を持って人は生まれて来るのだと思っている。しかし良い心は可憐な花のごとく弱くて折れやすい。反対に悪い心は雑草の様にしぶとく強い。なので、放っておくと良い心は枯れ、悪い心だけが増殖する。その悪しき心の増殖を食い止める除草剤が、法や規則なのだろう。しかしこれは劇薬である。加減を間違うと良い心まで枯らしてしまい、腐らせ生気をなくしてしまう。そうならずに良い心を育てながら悪い心を絶やす方策はないのだろうか。

私たちの霞ヶ関高校には校則というものが無い。もちろん高校生として法に触れるような事をした場合は、厳しい姿勢で臨んでいる。もし高校や中学校で校則が無かったら、悪い心が増殖するのが普通であると世間では考えられている。だからこそ多くの教育現場では、詳細な規則を定め生徒達の過ちを裁こうとする。しかし校則の無い本校は、至って平和。思い思いの服装と明るい笑顔、落ち着いた授業風景、穏やかな日常・・・。校則に拘束される事なく、周囲との調和を図りながら自らの心にルールを刻んでいく。人間は法や規則の劇薬で縛らなくとも、自らの内に芽を出した悪しき心を摘み取る力を持っている。その力を伸ばすのは、自らが体験しながら考え積み上げて行く事で生まれる「想像力」だと考える。友を想い、家族を想う。更には未来に出逢うであろう愛する人や、生涯目にする事のない同じ時代を共に生きる他者を想う。その想像力がある限り、善なる花は心の中に咲き続けるのだ。その想像力が芽生えるまで、教え導くのが家庭と学校の役割である。校則が無い分、教師の指導力と職員室のチームワークは大切だ。学校に対する家庭の理解と協力も欠かせない。本校が今の姿になるまでに多くの時間と汗が費やされたことも、在校生は忘れてはならない。

教師となって30数年。その中での霞ヶ関高校での数年間は、子供達の善なる心の成長に驚かされたり励まされたりしている。明日も学校に行くのが、楽しみでならない。